<あらすじ>
15歳の息子スティーヴを育てるシングルマザーのダイアン。スティーブはADHD(多動性障害)のため情緒も不安定で、普段は純朴だが一度スイッチが入ると攻撃的な性格になってしまう。そんな息子との生活に右往左往していたダイアンだが、隣家に住む引きこもりがちな女性教師カイラと親しくなったことから、少しずつ日々に変化が訪れる。精神的ストレスから吃音に苦しみ休職中だったカイラも、スティーブの家庭教師を買って出ることで快方に向かっていくが・・・
アンヌ・ドルヴァル、アントワン=オリヴィエ・ピロン、スザンヌ・クレマン 他 出演
グザヴィエ・ドラン 監督作
<感想>
息苦しい、狭い映像の息苦しさ。この映像はなんなんだ。
この自由に出来ない感覚・・気持ちの体感、共感なのだろうか・・
思い通りに生きることが出来ないってことは
こういうことなのだよと、映画を眺めて彼らを見つめているだけで
キリキリしてきて、だから、なんだろう、あの自由だ!と
扉をあけるように映像が広がってスクリーンが広くなって
そして、またパタリと狭くなった時、そうして、あの車の中で
ダイアンがもしも人生がこうだったら・・って一瞬妄想しちゃう時、
あの感じ、もうね、どうしようもないこと、願いよりも、
もっと地にある何か、あの得体のしれない辛いもの・・涙出てくるよ。
それでも、やはり、生きようとする、そう、生きなきゃいけなくて、
だけど、あのカイラでさえもつかの間の日々の共有者でしかなくて
人は孤独で、愛したいよりも愛されたいから、どうしようもなくって、
だけど、走り出したスティーヴ。彼は全速力で走った。
出口に向かって、閃光のように。自由なのだから。
もしも、彼らのような人たちが自分たちのすぐそばにいたら
スティーヴが楽しそうにスーパーのカートで踊るようにしていた姿を
だけど、あの自由をきっとアタシたちは煙たがるのだ。
彼の輝きを注意する・・それが人なのだ。
だからこそ、あの狭い映像で、アタシたちに観せたのだ。
どう、思う?って。こうやって生きているんだよ?って。
「死んじゃう前に言いたいことないの?だって今日で終わりかも
死に向かって生きているんだから。だから今、笑わせて」
というようなエンドロールの歌が、この映画そのもののようだった。
感覚というものに沁み入る・・ドランのやり方にすっかりハマる。
まるで音楽のように、映像と人々と言葉が沁みてくる。
歳をとっても、淡いソーダ水は好きなのだ。
ドランの映画はアタシみたいな汚いオバちゃんにも平等だ。
だって、切ないんだもん、こういうソーダ水のような映画。
泣けちゃったよ。ついつい泣いちゃったんだよ。。
*2015年6月の或る日、シネマ ジャック&ベティにて鑑賞