やっぱり映画は映画館だよね。
*星マークが、5:感動!、4:好き!、3:キライじゃないよ、2:なんで観たのか、1:時間と金返せ

 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」  2015年 オーストラリア、アメリカ

<あらすじ>
石油も水も尽きかけた世界。主人公は愛する家族を奪われ本能だけで生きながらえている元・警官マックス。資源を独占し恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたマックスは反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ、配下の全身白塗りの男ニュークスと共に奴隷として捕われた美女たちを引き連れ自由への逃走を開始する。凄まじい追跡、炸裂するバトル・・。絶体絶命のピンチを迎えた時、彼らの決死の反撃が始まる!
トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン、ニコラス・ホルト、
ヒュー・キース=バーン、ロージー・ハンティントン=ホワイトリー、ライリー・キーオ、
ゾーイ・クラヴィッツ、アビー・リー、コートニー・イートン、ネイサン・ジョーンズ、
ジョシュ・ヘルマン、ジョン・ハワード、リチャード・カーター、iOTA、
アンガス・サンプソン、ジェニファー・ヘイガン、メーガン・ゲイル、メリッサ・ジャファー、
ジョイ・スミザース、クエンティン・ケニハン 他 出演
ジョージ・ミラー 監督作



<感想>
一瞬、麿赤兒さんや『MONDAY』に出てきた白塗りくんたちが
いっぱい出てきたのかと錯覚しました、皆さんそっくりです・・(謎笑)

それにしても、すごすぎて・・だってね、頭で描いていることを
この勢いで実写映像にしてしまうパワーって・・なんなのよ?(笑)
たとえ宝くじが当たって湯水のように使えるお金があったとしても
どんなものでも自由に撮りなさいと言ってくれるプロデューサーがいたとしても
これを作れる脳みそと行動力と技術と情熱があるのかってことよね。
ひとつのカーアクションにしても、ひとつひとつの細かいことの
すべてのことが完璧にあわさってないと、あの動きにならないわけで
それをあの大馬鹿野郎パワー全開で観せちゃうのって狂気としかいいようがない。
自分たちの暴走をエレキギターと太鼓ドラムのようなもんで盛りあげながら
ひたすらぶっ放すだけのバカたちという設定がバカすぎて素敵すぎる(笑)
そのくせ緑の地を信じて絶望したフュリオサの叫びには
思わずウルっと泣きそうになり、名前を聞かれて黙っていたのに
いいころあいで「マックスだ」というとこにも
なんだか泣きそうって、どういうことなの、誰か教えて(笑)

観終わって、すぐにもう一度観たい!と思えた映画は久しぶりだった。
爽快なのだ。そして、なぜか、漲る気持ち。魂の片隅がとても熱くなる。
それなのに何も残らない。潔く、楽しい。最高!です。



*2015年6月の或る日、横浜ブルク13にて鑑賞



 「海街diary」  2015年 日本

<あらすじ>
鎌倉に暮らす長女・幸、次女・佳乃、三女・千佳の香田家三姉妹のもとに15年前に家を出ていった父の訃報が届く。葬儀に出席するため山形へ赴いた3人は、そこで異母妹となる14歳の少女すずと対面。父が亡くなり身寄りのいなくなってしまったすずだが、葬儀の場でも毅然と立ち振る舞い、そんな彼女の姿を見た幸は、すずに鎌倉で一緒に暮らそうと提案する。その申し出を受けたすずは香田家の四女として鎌倉で新たな生活を始める。そして・・。吉田秋生の人気コミックを実写映画化。
綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず、大竹しのぶ、堤真一、
加瀬亮、風吹ジュン、リリー・フランキー、前田旺志郎、鈴木亮平、
池田貴史、坂口健太郎、キムラ緑子、樹木希林、中村優子 他 出演
是枝裕和 監督作



<感想>
家族とはなんだろう。そもそもなぜ人は他人同士で
結婚という契約を交わし家族というものになりたがるのだろうか。
そんなことをしなくても一緒に生きて別れての繰り返しではダメなのだろうか。
何かを決めておかないと生きて行けないのなら、なぜ生まれたんだろう。
捨てて、捨てられて、一緒に生きて、別れて、また生きて。
離れても、一緒にいても、出逢ったことの繋がりの繰り返し。
その繰り返しを辿れば、きっと、たったひとつの命に辿り着く。
そう思うと、アナタもアタシも、そのまた見知らぬ人たちも
結局は、家族だったのではないのだろうか、たとえ一度も出逢わなくても。
だって、誰かの出逢いの繰り返しの命たちの名残なのだから。
なんだか、そんなことを、あの桜のトンネルを気持ちよく通り過ぎる
すずと風太くんを眺めていたら思ってしまった。そして、泣けてきた。

これといって何かが起こるわけじゃないけれど皆それぞれ色々
結構シビアなことも抱えているのだけれど表面上は穏やかで。
小さく傷つけあって、それでも生まれてきてよかったと
そんな風に思える日がきっとくる。彼女たちの日々をそっと眺めるように
そうか、これは映画のタイトルそのまま海街diaryだね。

それにしても、お腹空いている時に観るのは大変な映画。
電車の中で食べていたお弁当、しらす丼、しらすトースト、
梅酒、鯵フライ、おはぎ、ちくわカレー、ポテトサラダ、
さっそくアタシは、ちくわカレーとポテサラを作って食べましたよ(笑)
あの桜のトンネル、行ってみたいな。春が待ち遠しい。



*2015年6月の或る日、横浜ブルク13にて鑑賞



 「セッション」  2014年 アメリカ

<あらすじ>
偉大な音楽家を目指し名門音大に入学した才能あふれるドラマー、アンドリュー・ニーマンは、そこには入れたら将来を約束されたも同然、と言われるフレッチャー率いるバンドにスカウトされる。有頂天のニーマン。だが、彼を待っていたのは異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。そして・・・
マイルズ・テラー、J・Kシモンズ、ポール・ライザー、メリッサ・ブノワ、
オースティン・ストウェル、 ジェイソン・ブレア、カヴィタ・パティル、コフィ・シリボー 他 出演
デイミアン・チャゼル 監督作



<感想>
いやぁ・・なんか、ドラムというか、ジャズというか、
音楽というか・・スポ根というか、軍隊なのか、いじめというか
暴力なのか、虐待なのか、ある一線を超えたらこうなるよ的なノリに
まんまとその映画の罠にハマったアタシは音楽というより、
血しぶきが飛び散るリングの上の反則なんでもありの激戦を
観ている気分になっていて気がついたら観客席からお尻浮いてました(爆)
エンドロールになって思わず椅子を座り直したけれど
はたして、その後どうなったかとニーマンやフレッチャーへの
思いれなど一切わき上がらず、ただひたすら、目の前でおきる出来事に
胸がドカドカと様々な感情が映画を追いかけていたのだった。
狂気の瞬間ってなんだろう。得体のしれない何かに憑かれたように
異常な豪雨の音のようにニーマンのドラムが鳴り響く。

こういう映画ってきっと、音楽に詳しかったら
重箱の隅をつっつきたくなる人もいるのでしょう。
それはアタシにも、すごくわかる。自分の思いれのあるものに対して
変な角度から描いている映画に出逢った時は何度もそんな感想をもったから。
だけど、この映画は単純にこの凄まじすぎる瞬間瞬間を観入ってしまった。
とにかく、キャラバン!キャラバンよ、もう一度!という気持ちでいっぱい。
でも、そんなのは無理なのだ。だって、その瞬間はその時だけのもの。

嬉しかったのはニーマンとフレッチャーをいい奴にしなかったことだった。
並みの映画ならお互い握手とか、観客のスタオベとか
そこで閉めそうなもので、そして、それはそれで感動したろうけど
この監督はそんなところへ落ち着けなかった。
だって、嫌悪は嫌悪だよね、人はそんなにいい奴にならんよね、
それでも、その瞬間は善悪や分別や理屈などを
超えちゃっているモノ同士には訪れてしまうものなのだよね、
だからあの斧でぶったぎるような感覚、このとんでもない意地悪さ
この映画こそが狂気で、そして、とんでもない監督が映画屋さんになったよ。
こんにちは、ありがとう。デイミアン・チャゼル監督。
アタシはとにかくアナタの映画を観続けようかと思います。
しかし、こらえ性がない いつでも金欠の観客なので、
無難なのが何作も続いたら捨てちゃうけどね、斧でぶったぎるように。



*2015年6月の或る日、イオンシネマシネマMMにて鑑賞



 「Mommy/マミー」  2014年 カナダ

<あらすじ>
15歳の息子スティーヴを育てるシングルマザーのダイアン。スティーブはADHD(多動性障害)のため情緒も不安定で、普段は純朴だが一度スイッチが入ると攻撃的な性格になってしまう。そんな息子との生活に右往左往していたダイアンだが、隣家に住む引きこもりがちな女性教師カイラと親しくなったことから、少しずつ日々に変化が訪れる。精神的ストレスから吃音に苦しみ休職中だったカイラも、スティーブの家庭教師を買って出ることで快方に向かっていくが・・・
アンヌ・ドルヴァル、アントワン=オリヴィエ・ピロン、スザンヌ・クレマン 他 出演
グザヴィエ・ドラン 監督作



<感想>
息苦しい、狭い映像の息苦しさ。この映像はなんなんだ。
この自由に出来ない感覚・・気持ちの体感、共感なのだろうか・・
思い通りに生きることが出来ないってことは
こういうことなのだよと、映画を眺めて彼らを見つめているだけで
キリキリしてきて、だから、なんだろう、あの自由だ!と
扉をあけるように映像が広がってスクリーンが広くなって
そして、またパタリと狭くなった時、そうして、あの車の中で
ダイアンがもしも人生がこうだったら・・って一瞬妄想しちゃう時、
あの感じ、もうね、どうしようもないこと、願いよりも、
もっと地にある何か、あの得体のしれない辛いもの・・涙出てくるよ。
それでも、やはり、生きようとする、そう、生きなきゃいけなくて、
だけど、あのカイラでさえもつかの間の日々の共有者でしかなくて
人は孤独で、愛したいよりも愛されたいから、どうしようもなくって、
だけど、走り出したスティーヴ。彼は全速力で走った。
出口に向かって、閃光のように。自由なのだから。
もしも、彼らのような人たちが自分たちのすぐそばにいたら
スティーヴが楽しそうにスーパーのカートで踊るようにしていた姿を
だけど、あの自由をきっとアタシたちは煙たがるのだ。
彼の輝きを注意する・・それが人なのだ。
だからこそ、あの狭い映像で、アタシたちに観せたのだ。
どう、思う?って。こうやって生きているんだよ?って。

「死んじゃう前に言いたいことないの?だって今日で終わりかも
 死に向かって生きているんだから。だから今、笑わせて」
というようなエンドロールの歌が、この映画そのもののようだった。
感覚というものに沁み入る・・ドランのやり方にすっかりハマる。
まるで音楽のように、映像と人々と言葉が沁みてくる。
歳をとっても、淡いソーダ水は好きなのだ。
ドランの映画はアタシみたいな汚いオバちゃんにも平等だ。
だって、切ないんだもん、こういうソーダ水のような映画。
泣けちゃったよ。ついつい泣いちゃったんだよ。。



*2015年6月の或る日、シネマ ジャック&ベティにて鑑賞



 「駆込み女と駆出し男」  2015年 日本

<あらすじ>
江戸時代、幕府公認の縁切寺として名高い尼寺の東慶寺には複雑な事情を抱えた女たちが離縁を求め駆け込んできた。女たちの聞き取り調査を行う御用宿・柏屋に居候する戯作者志望で医者見習いの信次郎は、さまざまなトラブルに巻き込まれながらも男女のもめ事を解決に向けて導き訳あり女たちの人生の再出発を後押ししていくが・・。劇作家・井上ひさしが晩年に11年をかけて執筆した時代小説「東慶寺花だより」を映画化。
大泉洋、戸田恵梨香、満島ひかり、山ア努、堤真一、樹木希林、内山理名、陽月華、
キムラ緑子、木場勝己、神野三鈴、武田真治、北村有紀哉、橋本じゅん、山崎一、
麿赤児、中村嘉葎雄、松本若菜、山路和弘、井之上隆志、でんでん、高畑淳子、
中村育二、宮本裕子、松岡哲永、大島れい、赤間麻里子、円地晶子、玄里 他 出演
原田眞人 監督作



<感想>

「素晴らしくて敵わないから"素敵"という」

江戸時代には生まれていないから、どんな時代だったのかは知らない。
だけれど、なぜか、昔から惹かれるものがあった。
なので、杉浦日向子さんが描いてくれたり伝えてくれた
数々の話を夢中になって読んでいたし「お江戸でござる」も観ていたし、
彼女が若くして逝ってしまった時にも江戸時代の寿命だったのだろうかと
そんな風に無理矢理に思って受け止めていたくらいだった。
映画だったら山中貞雄監督の『人情紙風船』がたまらなく好き。
世知辛さと滑稽さと哀しさと、あの紙風船のラストシーンの
なんともいえない物悲しい美しさが忘れられないのだった。
だからやけに思いれ度が強いからこそ、この時代を描く
現代の映画を観るのが不安だった。なぜなら今まで何度となく
ガッカリしてしまったことを思い出してしまうからだ。
でも、嬉しいことにその不安は杞憂に終わる。

冒頭、信次郎が唄う「その日、その日の風次第、嘘もまことも義理もなし」
いつしか信次郎の軽やかな温かさにふれたような気持ちになったり、
不器用なじょごの応援をしたくなったり、あだっぽいお吟の生きざまに切なくなったり、
おゆき、戸賀崎ゆう、堀切屋の旦那、重蔵、お種・・心に残る女と男たち。
色んな事情で駆込んでくる女たち。
そして、それを冷静に公平に時には融通を利かせて判断し
間を取り持ち受けとめようとする駆込み寺の人たち。
確かにこの時代の女は大変だった。
でも女が可哀想で男が酷いという映画では決してない。
女も男も生きていたのだ。一生懸命、その時を。そういう話だった。
其々の男女に思いを馳せるも、とりわけ、お吟と堀切屋の旦那の話には
グっと心をつかまされてしまった。お吟の気持ち、とてもわかる気がした。
そして堀切屋の旦那の想いもわかる気がした。
願いどおり信次郎が読み聞かせる南総里見八犬伝の声の向こう側で
聴き覚えのある強味と渋みのあるあのひとの愛しい声を拾うように
細く美しい指先を天に泳がせ逝ってしまったお吟と
去りゆく顔を隠した堀切屋の旦那の大人の愛に痺れてしまう。
最初からそうだった。あの宴会場で浮世絵師が
芸妓さんの背中に絵を描いている場面からして
江戸の匂いたつ遊び場のようで、二人が出てくると、
まさに江戸の香りがするようだった。大好きな江戸がそこにあった。
いつか、この二人の番外編の映画を作ってほしいと思ったくらい
お吟と堀切屋の旦那の漂いに惚れてしまいました。

「べった、べった、だんだん(いつもいつもありがとう)」
それから端歌も唄ってみたくなる。鯵も食べたいぃ。
本当に"素敵"な、映画でした。



*2015年5月の或る日、イオンシネマMMにて鑑賞



 「恐怖分子」  1986年 香港、台湾

<あらすじ>
銃声が響き渡る朝。警察の手入れから逃げだした混血の少女シューアン。その姿を偶然カメラでとらえたシャオチェン。上司の突然の死に出世のチャンスを見出す医師のリーチョンと、執筆に行き詰まる小説家の妻イーフェン。何の接点もなかった彼らだが、シューアンがかけた一本のいたずら電話が奇妙な連鎖反応をもたらしていく・・・
コラ・ミャオ、リー・リーチュン、チン・シーチェ、クー・パオミン、ワン・アン、
マー・シャオチュン、ホアン・チアチン 他 出演
エドワード・ヤン 監督作



<感想>
「どこかで逢った気がする」
あまりにも完璧なショットの重なりに頭の中の色がなくなって
透明液になりそうな気分だった。
道に倒れている人、気がつかずに淡々とベランダで
洗濯している女性を眺めているだけでざわついてくる。
銃声を聞いて飛び出すカメラ小僧の青年シャオチェンは、
飛び出してきた少女シューアンにひと目惚れをする。
小説家のイーフェンは書けない日々が続いている。
病院で働く夫のリーチョンは昇進を約束されていた。
ちょっとしたこと、軽い気持ち、そんなことが重なって
次第に大きな傷になる。誰にでもある誰でも持っている
自分では気がつかない残酷さが誰かを傷つける。

銃声、風になびく写真の音、手を洗う音・・
「どこかで逢った気がする」 そう言って
静かな狂気に沈んでいくリーチョンを見つめ
「どこかで彼を観た気がする」思いにかられる。
そして、風呂場に行くあの刑事さんのように 胸を衝かれた瞬間、
血の滴でさえも完璧すぎて身動きできなくなる。

無口なこの映画は人物の時間を行ったり来たりして
彼らの行動を追いかけるだけなのに、その乾いた映像が饒舌で
心の耳に爆音でガンガン響いてくるのだ。
その削りゆく美学にしばらくの間放心になり
この映画以外うけつけられなくなりそうなくらい
細胞を支配されてしまった気分でいっぱいになってしまった。
大きな傷は、まさにこの映画そのものなのかもしれない。
そして、その傷は映画の歓びに満ちている傷なのだった。



*2015年4月の或る日、シネマ ジャック&ベティにて鑑賞



 「バードマン」  2014年 アメリカ

<あらすじ>
シリーズ終了から20年、今も世界中で大人気のスーパーヒーロー“バードマン”。だが、その役でスターになったリーガンは今は失意のどん底にいる。再起をかけたレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」の脚色・演出・主演で製作し、ブロードウェイに立とうとするが実力派俳優マイクに脅かされ薬物中毒の娘サムとも溝が深まるばかり。そして・・・
マイケル・キートン、エドワード・ノートン、エマ・ストーン、
ナオミ・ワッツ、ザック・ガリフィナーキス、アンドレア・ライズブロー、
エイミー・ライアン、リンゼイ・ダンカン 他 出演
アレハンドロ・G・イニャリトゥ 監督作



<感想>
リーガンは追い詰められている。とにかく必死である。
だいたい演じているのが『バットマン』のマイケル・キートンさんだもん!
そんなこともあり、ワンカットとドラムの音(カッコイイ!)とともに
それこそ、やけにリアルにすすむ。いきなりの空中浮遊にしても、
ありえないのに、なんだか彼の妄想心情のようでリアル(なんだそれ・笑)
そのリアルということに関しても皮肉めいていて演技は最高だけれど
性格にクセありのマイクが劇中用の酒を水に変えられて本物じゃないと怒っている。
でも本当の演技ってなんだよ?ってね、演技は水を酒のように飲んでこそなのにね。
そのマイクを演じているエドっちことエドワード・ノートンさんが最高です。
やはり、なで肩な男は只者ではないことを証明しました(笑)

結局、プレビューで追い詰められ、初日にリアルを追及するあまり
舞台上で本物の拳銃で自分を撃ってしまったリーガン。
幸い鼻を手術するだけで助かるけれど、あれだけバカにされていたのに
なぜか批評家には絶賛されてしまっている。
結局、この世界にいる限り、バードマンの亡霊は消えてくれない。
そう、過去をとりもどすのではなく、過去を捨てるのだ。
窓から何もかも捨てた。自分自身も捨てた。

下を観るサムがふと空を見上げ微笑んだのは
やっと自由になったリーガンを目撃したからなのだろうか。
色んな解釈が出来そうなラスト。ファンタジーとして、ハッピーエンドとして。
でも、アタシは悲観的というか、死んじゃったけれど、ハッピーという
何もかも消して自由になったということを勝手に受けとめた。
命よりも大切なものはないと人は言う。アタシもそう思う。
それでも、そこに自分自身をかけたい人もいる。
肉体は消えても魂は自由になって空を飛んだ。
動画の再生回数ではない本物をつかむために。



*2015年4月の或る日、ムービルにて鑑賞



 「おみおくりの作法」  2013年 イギリス、イタリア

<あらすじ>
ロンドンのケニントン地区の民生係、ジョン・メイ。ひとりきりで亡くなった人を弔うのが彼の仕事。事務的にも片付けられるこの仕事をジョン・メイは誠意をもってこなしている。ある日の朝、ジョン・メイの真向いのアパートに住んでいた男が亡くなる。近くに住みながらも全く知らなかった男の死。彼はこれまで以上に仕事に打ち込むが・・
エディ・マーサン、ジョアンヌ・フロガット、カレン・ドルーリー、
アンドリュー・バカン、キアラン・マッキンタイア、ニール・ディスーザ、
ポール・アンダーソン、ティム・ポッター 他 出演
ウベルト・パゾリーニ 監督作



<感想>
見知らぬ人が死んだ時、どうやったらその人の生きてきた日々を
想像できるのだろう。残された写真には猫と一緒に笑顔で写っていた女性。
その女性の生きてきたであろう日々をジョン・メイは想像する。
そして、孤独死した彼女が幸せに生きたはずだという
そんな思いをこめた弔辞を記し神父に読んでもらっていた。
彼の仕事ぶりは本当に丁寧で心がこもっているのだった。
そんな矢先、予算を削減しなければならず、彼は解雇をされてしまう。
上司は言う。葬儀は生きている人たちのためにやるもので
死んでしまったらそれで終わりだし予算がないのだから
火葬の方が安くすむと。一見冷たいようだけれど
これはある意味、間違ってはいないよなと思うことでもある。
葬儀というのは生きている人の気持ちに区切りをつけるための
儀式のようなものでもあるのだから、出来れば予算は
今、生きて必要としている人たちに使うべきとも思うのだ。

だけれどだからと言って、死んだ人たちの生きていたその日々は
誰かにとってはどうでもいい日々でもその人や
その人に出逢った人たちにとっては喜怒哀楽を波打ちながら
生きてきた命そのものの日々だったのだ。そう思うと
ジョンのやっていることは、心情的にはすごくわかるのだ。

そんなジョンの最後の仕事になる孤独死したビリーという男性は
異臭が放つまで何十日も発見されなかった人だった。
刑務所に入り出てからもホームレスになり、飲んだくれ
引きこもり、家族も友だちもいそうになかった人だけれど
そのビリーの生きた日々をジョンは追いかけてみる。
かつて一緒に暮らした女性、軍人仲間、ホームレス仲間、
一緒に働いていたことがあるパン工場の同僚・・
皆それぞれ彼を懐かしがり彼との想い出があったのだ。
そして、ビリーには優しい娘もいて彼女の中には
父親とのわだかまりがあったけれどジョンの人柄にふれて
頑なな心がとけていき最終的には葬儀に参列してくれることになり、
その後、一緒にお茶でも飲もうという約束もする。
しかし皮肉にも、信号が渡る色でも車が来なくても
左右確認する几帳面だった彼が幸せな気持ちと引き換えに
失ったものはあまりにも大きかった。

ビリーの葬儀の日。
ジョンがビリーの日々を追いかけて訪ねた人たちが
全員ビリーのために来てくれていた。ジョンの死も知らずに。
その心のこもった葬儀から見える場所に孤独に埋められていくジョンの棺桶。
皆がいなくなり、静まりかえる。温かく見送られたビリーとは対照的に
あまりにも孤独だったジョン。そして、あのラストシーンだもの。
泣いてしまうよ、涙とまんないよ。エンドロールに行く前の
ラストのラストにそれはヤメてくださいよ。
だって、エンドロールの間に涙と鼻水処理できなくて困るのだよ(笑)

明日は生きてないかもしれない。せっかく生きているのなら
心をこめたい。些細なことでも、たったひとつのことでも
丁寧に接したい。いい映画を観るたび、時々そんな風に思う。
そして、そう思っていながらも、すぐに忘れてしまう。
けれど、こうして、また、そんな風に思わせてくれる。
だから映画は止められない。この映画に出逢ってよかった。

それにしてもエディ・マーサンさんってば『思秋期』の時とは
間逆のような役柄でした。あっちは同情できないヒドイ男だったー(笑)
でも、こっちは愛すべき几帳面な男だった。



*2015年4月の或る日、横浜ニューテアトルにて鑑賞



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