やっぱり映画は映画館だよね。
*星マークが、5:感動!、4:好き!、3:キライじゃないよ、2:なんで観たのか、1:時間と金返せ

 「ゴーン・ガール」  2014年 アメリカ

<あらすじ>
結婚5周年の記念日。誰もが羨むような幸せな結婚生活を送っていたニックとエイミーの夫婦の日常が破綻する。エイミーが突然姿を消したのだ。リビングには争った跡がありキッチンからは大量のエイミーの血痕が発見された。警察は他殺と失踪の両方を探るが、次第にアリバイが不自然なニックへ疑いの目を向けていく・・・。
ベン・アフレック、ロザムンド・パイク、ニール・パトリック・ハリス、 タイラー・ペリー、
キャリー・クーン、キム・ディケンズ、パトリック・フュジット 他 出演
デヴィッド・フィンチャー 監督作



<感想>
映画の面白さが詰まっている、玩具箱のような映画だった。
一見ミステリーのようなサスペンスのような入口だったのに
フタを開けてみると、とってもブラックコメディ。
面白い、笑えるのです、すごいね、こわいね、うまいねって感じで。

以下、いつものようにネタばれ。
というか、もともと原作は売れているホンらしいので
(アタシはいつものように読んでおりませんが)
内容は知られているはず。

夫婦というもの、理想的な雰囲気であればあるほど、怪しい。
案外、ケンカばかりしている方が、正直な夫婦かも。
だって人間なんだもん、ピッタリあう人同士などいない。
どっちかがガマンしているんだって。あるいは両方勘違いしている。
そもそも皆それぞれ違う人間なんだから、趣味があうわけないし、
性格なんか不一致しまくりだしねぇ。なので、その違いを楽しめるのか
それでも好きなのかってことなんだろうけれど
人はみな、自己中でしょう。よほどの神のような慈悲深い性格でないかぎり
みんな、優しい仮面をした自己中だよ。だから、どこかで相手を許していない。
自分のことばかりで、相手の存在、相手の思いなんかスルーばかり。
騙し合い、幸せそうな嘘の連射攻撃がたまらなくニヤニヤくる。
夫婦のことだけではなくてマスコミの存在そのものの暴力というか
ありもしないものを作り上げる恐ろしさなどを、これまた
ブラックに皮肉な感じで笑わせる展開で、いやはや、人間って怖い。

クソ女、エイミーとか言われてしまいそうだけれど
アタシからしたら、クソ男、ニック!だぞ(爆)
やってしまえ、やっつけちまえって、うっかり思ってしまう女心。
ただ彼はある意味、悪い人ではない。カメラをむけられると
思わずニコって反応してしまう下心があまりない人。
でも、やっぱり暮らしてみたら全然違うんだもんねぇ、
あぁいうのは多かれ少なかれ幻滅するのだろうね。
そういうところが他人事ではない面白さがあるのです。
けど、一番のとばっちりはアメダンのゲスト審査員や
トニー賞の司会やヘドウッグでお馴染みの彼だよ、お気の毒です(謎笑)

人生は続く。悪夢は続く。エイミーの微笑みは
まさに『氷の微笑』を彷彿させる危険な痛快さ。
女は怖いですか? いえいえ、夫婦が怖いのです。



*2014年12月の或る日、イオンシネマMMにて鑑賞



 「郊遊 ピクニック」  2013年 台湾・フランス

<あらすじ>
父と、幼い息子と娘。水道も電気もない空き家にマットレスを敷いて三人で眠る。父は、不動産広告の看板を掲げて路上に立ち続ける「人間立て看板」で、わずかな金を稼ぐ。子供たちは試食を目当てにスーパーマーケットの食品売り場をうろつく。父には耐えきれぬ貧しい暮らしも、子供たちには、まるで郊外に遊ぶピクニックのようだ。だが、どしゃ降りの雨の夜、父はある決意をする・・。
リー・カンション、リー・イーチェン、リー・イージェ、チェン・シャンチー、
ヤン・クイメイ、ルー・インチン、 他 出演
ツァイ・ミンリャン 監督作



<感想>
永遠のシャオカン。
ツァイ・ミンリャン監督の商業映画引退作 『郊遊 ピクニック』
ここでもリー・カンションさんはシャオカンだった。
ツァイ・ミンリャン監督の映画の中で常に登場してくれたシャオカンは
『楽日』の時の無口な映写技師の青年ではなく
日々生きて行くのが精一杯の疲れた父親の顔だった。

雨に打たれ、強風に耐えながら広告の看板を持ち立つ仕事。
最初は遠くから、そのうち何度か目には
顔のアップになって詩のようなものを歌う彼の姿は
無防備に辛さがあふれ今にもパンクし押しつぶされそう。
シャオカンにはふたりの子供がいる。
お兄ちゃんと妹はそんなに悲観的には観えない。
というより、試食コーナーでやりすごしたり
極貧なのだけれど三人一緒だからなのかもしれない。
清潔なお風呂場でシャワーを浴び歯を磨こうと
公衆便所で歯を磨き足を洗い体を拭こうと ひとりでするのとは違う。
三人でお弁当を食べ妹はキャベツを買って一緒に寝る。
寝床のキャベツに行き場のないものがこみあげ
キャベツを絞殺し丸かじりしてしまうシャオカン。
そのキャベツを買ったお店で働くスーパーの女は
妹の髪を洗ってくれている。

廃墟で暮らす野良ワンコたちにご飯をあげにいく女がいる。
ワンコたちにはそれぞれ名前がつけてあり
「王力宏」とも呼んでいて、もしかして
『ラスト、コーション』のワン・リーホンさんのこと?と
思ってちょっとクスって和んでしまった。

隠しておいた小舟。豪雨。ひとりでむさぼるチキン。
大きな屋敷の廃墟のような壁には意味ありげな壁画。
そこをいつも哀しげな眼で眺め涙を流す女。 忘れられた蛙。
長い呼吸の末に すべてを投げ出し拒絶されたシャオカン。
まるで死後の世界のような、孤独な場面。
あるいは過ぎた日々のことなのだろうか。
今のことのようで、今のことでないような空虚。
いや、もしかしたらそういうことなのか。
あ、いや、そういうことでもあるのかとか、 ぼんやりと受け止めながら
その頼りない寂しげな背中を見つめている映画のコチラ側。
シャオカンの生きた日々。映画の住人の歳月。色んなシャオカン。
それは消えない。映画を好きでいる気持ちがあるかぎり。



*2014年12月の或る日、シネマ ジャック&ベティにて鑑賞



 「おやすみなさいを言いたくて」  2013年 ノルウェー・アイルランド・スウェーデン

<あらすじ>
報道写真家レベッカ。自爆テロ犯に同行しながら撮影していた彼女は爆発に巻き込まれ危く命を落としかける。家族が待つアイルランドに帰ると夫マーカスから思いもよらないことを告げられる・・。監督はノルウェー出身の元報道写真家、エーリク・ポッペ。
ジュリエット・ビノシュ、ニコライ・コスター=ワルドー、ローリン・キャニー、
エイドリアナ・クレイマー・カーティス、マリア・ドイル・ケネディ、
ラリー・マレン・ジュニア、マッツ・アウス・ダール 他 出演
エーリク・ポッペ 監督作



<感想>
冒頭。淡い光が差し込む中、報道写真家の
レベッカが辿り着いた場所は自爆テロの準備をする場所。
爆弾を体中につけらていた女性は凶暴さとは無縁の
ごく普通の大人しそうな優しげな面持ち。
彼女のまわりで儀式のように皆が祈り、そして送りだされる。
テロリストというのはなんだろう。。
アタシたちとかけ離れた凶暴な人たちと思っていた
(思いこみたかった)ものが根こそぎ崩れて行く。

「抑えきれない何かが自分の内側にある、
 終わらせ方がわからない・・」
「ママが死んじゃえば皆で哀しんで終われるからいい」
レベッカ、マーカス、ステフ、リサ・・・
それぞれの思いが、手にとるように、
すべてを余すことなく受け入れることが出来るから
どうにもこうにも切ない。
硬派な語り口の中にある繊細な美しい場面の数々・・
浜辺で笑いあうレベッカとマーカスが忘れられない。

どうしたらいいのだろう、あまりにも果てしない不条理。
間違っている、止めたい・・それなのに・・・
写真を撮ったって、何も変えることが出来ないのだ、何も。
そのことが重く、重く、耳鳴りのごとくいつまでも響いている。
この映画の静かさ、怒りや悪を強調しない眼差しが
逆に怒りと哀しみを一層色濃く後味として残している。
映画そのもの、映像で語る。
ひさしぶりに、本当に、本当に、ひさしぶりに
真摯な映画を観た気持ちが体中で休みなくあばれている。



*2014年12月の或る日、横浜シネマリンにて鑑賞



 「フューリー」  2014年 アメリカ

<あらすじ>
1945年4月、戦車"フューリー"を駆るウォーダディーのチームに、戦闘経験の一切ない新兵ノーマンが配置された。新人のノーマンは、想像をはるかに超えた戦場の凄惨な現実を目の当たりにしていく。 ドイツ軍の奇襲を切り抜け進軍する"フューリー"の乗員たちは、世界最強の独・ティーガー戦車との死闘、さらには敵の精鋭部隊300人をたった5人で迎え撃つという絶望的なミッションに身を投じていくのだった。 1945年5月のナチスドイツが滅びるその1ヶ月前にドイツ本土にアメリカ兵が入った時の1日を描いた作品。
ブラッド・ピット、ローガン・ラーマン、シャイア・ラブーフ、
マイケル・ペーニャ、ジョン・バーンサル、ジェイソン・アイザックス、
アナマリア・マリンカ、アリシア・フォン・リットベルク 他 出演
デヴィッド・エアー監督作



<感想>
人はたった1日で人殺しになってしまうのだろうか。
ノーマンはタイプライターで彼が訓練していたのは
どれだけ速くタイプをうつかということだった。
そんな戦闘経験のない18歳の新兵が
いきなり現場にまわされるほどの状態だったアメリカ軍。
1945年の5月にナチスドイツが滅びる1ヶ月前の4月、
ドイツ本土にアメリカ兵が入った時の1日だけの物語。
ドン・コリアー軍曹率いる激しい怒りという名の戦車
フューリーに乗るのはノーマンをいれてたった5人。
その5人で300人のドイツ軍に挑むということは
どういうことなのか。アタシは戦車のことは知らない。
本物の戦車がどうとかか、そういうのもよく知らない。
なので、その辺の興奮や落胆などはわかんないのでスルー(笑)

そんな中、これが1日の出来事かと思うと唐突な部分も多々あるし
ノーマンとエマの部分はノーマンの心理変化の理由のための
とってつけたようなベタなシーンだった気がしたりしつつも
ふたりが何か書くものをと連絡をとりあおうとする
まさにベタな場面ではなんだかやっぱり切なくなったのでした。
きっと心のどこかでせめてこのふたりだけでも・・と
思いたくなるような気分で観ていたことになるのだから
気がついた時には、かなりハマっていたのです。・・というより
冒頭に淡々とまさに任務のごとくブラピ演じるコリアー軍曹が
ザクっと相手を殺し、馬を放す場面で冷たい苦い薬を
呑みこんだ気分になっていたのだから初めから観入っていた。
たった1日で真面目な人間を人殺しにしてしまう、それが戦争なのだということ。
殺される前に殺す。そのことを繰り返す無情な異常さに追い込むこと。

ペチャンコになった死体の上を戦車がいく。
なんのために、なんでということを考える暇もなく。
ウォーダディことコリアー軍曹は言う「理想は平和だが歴史は残酷だ」と。
平和のためにという命の通ってない言葉の下で残酷を越えた
限界以上のことを無意味に普通の人たちにさせる、それが戦争なのだ。
ラストに数えきれないほどの無言の死体が映される。
いったいなんのために死ななければならなかったのか。
どうして、殺さなければいけなかったのか。
人間には言葉という伝えあう道具を持っているのに。
命を奪いあわなければいけない理由、そんなものは1ミリだってないはずなのに。



*2014年12月の或る日、イオンシネマMMにて鑑賞



 「ジャージー・ボーイズ」  2014年 アメリカ

<あらすじ>
ニュージャージー州の貧しい町で生まれ育った4人の青年たちは、その掃きだめのような場所から逃れるために歌手を目指す。コネも金もない彼らだが天性の歌声と曲作りの才能、そして素晴らしいチームワークが生んだ最高のハーモニーがあった。やがて彼らは「ザ・フォー・シーズンズ」というバンドを結成し瞬く間にトップスターの座に就くが・・。ブロードウェイの大ヒットミュージカルを基に映画化。
ジョン・ロイド・ヤング、エリック・バーゲン、 ビンセント・ピアッツァ、マイケル・ロメンダ、
クリストファー・ウォーケン、マイク・ドイル、レネー・マリーノ、エリカ・ピッチニーニ 他 出演
クリント・イーストウッド監督作



<感想>
イーストウッド監督云々より単純に音楽映画は好きなのでとても期待していた。
映画の中で出てくる音楽は「君の瞳に恋してる」ぐらいしか知らなかったのだけれど
日本の映画宣伝の仕方でヴァリの娘さんの死がこの曲の誕生のように
勘違いされてしまっているけれどここはフィクション。
「君の瞳に恋してる」は60年代に誕生で彼の娘さんが亡くなったのは
80年代なので。でも、そこはそれでいい。
だって映画はドラマとしてみせなけれないけない。
一番この映画の中で盛り上がる場面をフィクションにできる自由こそが
映画が玩具でいられることなのだから。ただ、やはり、映画と舞台は違う。
これといった目新しさがまるでないありきたりな事が繰り返される
退屈な展開を眺めながらこれを映画にしたワケを探してしまった。

たとえば、途中でボブをメンバーに加える場面なんか
言葉ではなく音楽と音楽で通じ合えるものを醸し出すような
ワクワク感が出てくる場面なはずなのに味気ない感じになってしまう。
たぶん、この映画の中で唯一人物に寄り添ってくれていたのが
ヴァリだけだったという捨て鉢な描き方だったゆえに
感情移入が出来ないのですよね。それはトミーの描き方にも言えて
彼に対して金使いや態度には問題あるけれど根っこはいい奴だし
なんだかんだとヴァリの声を愛してくれている人でもあるので・・という
愛すべき不良につきもののどうしようもないんだけれど
なんだか憎めないヤツ的な感じがアタシには伝わってこなかったので
なんで、アイツの作った借金を皆で返さないゃいかんのかとか
観ていてどうにもボンヤリしてしまったのだった。

きっと舞台だったらボブがメンバーに入る場面なんか
音と音が重なりあってシンプルに楽しめそうな場面なのだけれど
彼らのひとりひとりの横顔を印象的に描いてくれないとなかなかノレない。
そんな中、地味に心の中で盛り上がったのが後に初期から中期にかけての
スコセッシの映画には欠かせない俳優になったジョー・ペシさんが
ボーリング場で働いているところ。本当にかかわりがあったのかな?
それともこれもフィクションなのかしら。あとで調べてみよう。

とはいえ、やはり「君の瞳に恋してる」は聴いているだけで楽しくなります。
実際のフランキー・ヴァリさんの声は映画と舞台でヴァリ役をつとめた
ジョンさんの声よりも好みです。そして、ふとこの曲を知ったのが
『ディア・ハンター』だったことを思い出したのです。
その時のニックを演じていたクリストファー・ウォーケンさんが
ヴァリの歌声に涙して情をみせてくれるマフィアのボス役。
たまたまだとは思うけれど、そんなのはちょっと嬉しいな。



*2014年12月の或る日、横浜ニューテアトルにて鑑賞



 「浮城」  2013年 香港

<あらすじ>
かつて香港には蛋民(たんみん)と呼ばれる数多くの水上生活者がいた。1940年代末。最初の子供を流産した蛋民の夫婦が、ひとりの赤ん坊を買い取る。その子は一目でイギリス人と中国人の混血だとわかったが、夫婦は赤ん坊に華泉(ワーチュン)という名を付けて大切に育てた。蛋民は学校に通わず、文字の読み書きもおぼつかないのが普通だ。だが華泉は母親や牧師の応援もあって学校に通うようになり、やがて東インド会社の雑用係に採用された。猛勉強して社内で頭角を現し幼馴染みのタイと結婚して子供を授かり現地採用の人間としては初めて会社の重役にまで出世することができたが・・・
アーロン・クォック、パウ・ヘイチン、チャーリー・ヤン、アニー・リウ、
ジョシー・ホー、カールソン・チェン 他 出演
イム・ホー 監督作


<感想>
香港という場所に惹かれるのはなぜだろう。
香港映画が好きなのはどうしてなのだろう。
理由もわらず漠然と子供の頃から好きだった。
もちろん、他にも好きな場所がいっぱいあるし
映画だったら香港以外にもどこの国のも
映画という名のつくものだったら好きだけれど
なぜだか、香港という響きに特別なものを感じてしまう。
一度も行ったことがないのに。友だちもいないのに。

水の上の人たち。そこで生きるしかなかった。
ある日、残飯集めの娘がイギリス兵に乱暴され子供を産む。
育てることが出来ないので水上生活者の夫婦に売る。
ワーチュンと名付けられたその子は夫婦に大切に育てられ
大人になり自分は何者なのか、水上生活から
もっと違う世界へという気持ちのまま歩み始める。
差別をされながらも、靴を履き、字を憶え出世をしていくワーチュン。
常にどこか思い詰めながらも前に進もうとする彼は
ある意味、出世していく感じなのかもしれないけれど
サクセスストーリー的なそういう爽快さというのはちょっと違う。

なんだか途中でワーチュンの育ての母が
懸命に字を書く所から泣けてきてしかたがなかった。
彼女の書く"海"と言う字は忘れられない。
誰もが袖の下をおくる中で何年かかっても
正々堂々と船の免許をとる彼女の真面目さは
そのままワーチュンにも伝染しているような気がした。
そして、観ている間、ずっと気になっていたのは
ワーチュンの影のような存在だった妻のタイ。
彼女の哀しさは明確なのに 映画の中では誰も助けようとしない。 タイはワーチュンと結婚することになり 少しパニックのまま彼の生活の一部になる。 子供を産み、ワーチュンの妻として洋式のパーティに行かされる。 どうしていいかわからない彼女がセレブ妻たちの中に放り込まれ ただオロオロと笑顔をみせている姿。
その後もパーティには行きたくない彼女に冷たいような
なんともいえない視線をおくるワーチュン。
耳の悪いタイは補聴器をつけていた。だけど、いつしかつけなくなった。
壊れていると言って。でも電池がきれただけだった。
何年もたって子供も大きくなってから、
ようやく彼女の苦しみに気がついたワーチュンが
新式の補聴器を買ってあげて彼女がうれし泣きのような表情で
笑い返すのだけれどアタシだったら、どうだろう。さすがに笑い返せない。
時すでに遅しという感じで気持ちは凍ってしまうなと思いつつ
そんな風に自分のこととして感じられるほど
登場もそんなに多くなくセリフもほんどないタイの存在はとても大きかった。
彼女の存在はどこか普遍的。こういうことって多かれ少なかれある。
自分を殺して相手にあわせなきゃいけない地獄のような人生。
生まれてきた意味はなんだよと、そんなことまで思わせてくれたのは
表現としてリアルだったからだと思う。

唯一この映画に不満があるとすれば
ワーチュンの モノローグがやけに多かったこと。
映画のモノローグはやりすぎるとウンザリする。
だから、いつもだったらそれが邪魔するのだけれど
この映画に関してはそれほど気にならなかった。
最初は気になったのだけれど途中からこれはワーチュンの
50歳までの日記なのだと思えたことが幸運だったのかもしれない。

運命を受け入れ自分らしく生きるためにウロウロしながらも
前に進もうとするワーチュン。彼の存在そのものが香港そのもののような気がした。
中国でもなく、イギリスでもなく、その間をゆらゆらと翻弄させられ
運命に弄ばれながらも、自分たちらしく生き抜くことを心に持ち続けながら。。

様々な場面の残像がいつまでも波の上のようにゆれている。
針を拾うよりも難しいという歌声がしばらく気になっている。



*2014年11月の或る日、シネマ ジャック&ベティにて鑑賞



inserted by FC2 system